「思考」とは不思議なものです。便利に使えている時はやりたいことややるべきことをサクサクと進めていくための大切な機能なのですが、気持ちが下がっている時や体調がすぐれない時は、同じことを考えてグルグルと堂々巡りをしたり、または独自の偏ったストーリーを作り出して、「それが真実だ」と信じはじめることがあります。そうして、やがては世の中がアンフェアに思えて自分が損しているような気がしたり、自分には他の人ほどの価値がないと考えはじめたりすることもあるかもしれません。
でもそれは真実ではありません。
調子が悪い時に思考が作り出す独自の偏ったストーリーは、真実ではありません。それを証拠に、調子がいい時の自分はそんな風に世の中を眺めたり、自分の価値を低くみたりなんてしないから。自分の可能性をもっと信じることができて、やってみたいことを思い浮かべてワクワクしたり、自然や世界の美しさや奇跡に感動することもできます。
調子が悪い時に思考が見せてくる独自の偏ったストーリーは、その時だけの現象です。頭の中にまるで霧を作り出すようにして、世界をクリアなレンズで見ることをブロックしているのです。そしてそこには、もちろん理由があるはず。外をはっきりと見えなくするための、目的があるのです。
それはきっと、「身体と心を十分に休ませるため」だと感じます。思考は頭の中に霧を作り出すようにしてあなたが世界をクリアなレンズで見えなくすることによって、「休息の必要性」を知らせているのです。「しなければならないこと・考えなければならないことのリスト」から自分を解放させて、いっときの間でも、深い休息が必要ですよと言って。
それは同時にたくさんの情報処理をしようとするコンピューターが、ときどきフリーズする状態と似ているかもしれません。「スリープ」のようにいつでも立ち上がる状態にして休ませるのではなく、ときには完全に電源を切ってしっかりと休ませてほしいと、あなたの全身全霊が、思考を使って伝えてきているのだと思います。
休むとは、たとえばたっぷりと深く眠ることかもしれないし、または、「今日は本当に、生産性のあることは何もしない」と決めて、ただひたすら「いまをじっくりと感じる」ことかもしれません。好きなことだけを気の向くままにやってみるとか、深呼吸をして緑の香りを嗅ぐこと、好きな音楽を聴きながら長いお風呂に入るなどの、何かを達成した気分にはならない代わりに、心と体を喜ばせることができていると感じられる行為をすること。
または、場合によっては身体を動かして運動することがいいのかもしれません。鈍っている身体を動かして、溜まっていた感情のエネルギーを外に出してあげる必要があることもあります。身体を動かすことでなぜか涙が溢れ出るのを経験したことがある人もいるかもしれませんが、それはまさに、溜まっていた感情が解放された証。そうやって私たちは、自分の空気を抜いたり入れ替えたりしてあげる必要があるのです。
忙しいのにそんなことできない。そう思ったりするかもしれません。または、休息をとることに罪悪感を感じることもあるかもしれません。でも焦らないで。今日だけは自分を深く休憩させるのだ、と決めます。
そうやって過ごしていると、必ず少しずつ頭の中のモヤッとした霧が晴れてきて、ぐるぐるしていた思考がその回転速度を緩めていきます。不安のタネを解決・改善するためのアイディアや方法が浮かんできたり、自分の在り方がクリアになってきます。人生はそんなに悪くないと、また再び思えるようになっていきます。
思考のそんなサインに気が付いたら、いったん足を止めて、深い休息の時間を取ってみてください。独自の偏ったネガティブな思考ドラマに振り回されることには何の意味もなくて、全身全霊が休息を求めているのだと、気が付いてあげましょう。
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